2013年11月9日土曜日

私は目が見えません


目の不自由な少年が、ビルの階段に座り、その足元に帽子を置いていた。少年は、
『私は目が見えません、ご協力をお願いします。』
と、書かれた立て札を持っていた。しかし、帽子には小銭が少ししか入っていなかった。

そこに男が通りかかった。男はポケットから小銭をいくらか取り出し、帽子の中に入れた。それからその立て札を取り、ひっくり返してある言葉を書いた。そしてその立て札を元に戻し、通りがかりの人々にはみな、その新しい言葉が見えるようにした。

まもなく帽子はいっぱいになり始めた。以前よりもずっと多くの人々がその目の不自由な少年にお金を寄付していた。
 
その日の午後、立て札の言葉を変えた男が、様子を見にやってきた。少年はその男の足音に気付き、尋ねた。

「今朝、わたしの立て札を書き変えたのは、あなたですか?何て書いたのですか?」

「事実をそのまま書いただけだよ。君が書いていたのと同じことを、ちょっと違うやり方でね」
男は答えた。

男が書いた言葉は次の通り。
『今日はとてもよい天気ですね、でも僕は見ることができません。』

果たして、最初の立て札と2番目の立て札は、同じことを言っているのだろうか。

もちろん、どちらの立て札も、この少年は目が不自由なことを伝えている。しかし、最初の立て札は、単に、この少年は目が見えないと言っているのに対し、2番目の立て札は、見た人に、あなたは目が不自由ではなくて何て幸せなんでしょう、と伝えている。

2番目の立て札の方が、効果的だったことに驚くべきだろうか。

教訓

自分の持っているものに感謝しよう。想像力を働かせよう。斬新になろう。視点を変えて、肯定的に考えよう。

人生に言い訳なし、愛に後悔なし。

人生で泣きたい理由が百あれば、笑顔の理由は千もあると示そう。

過去に後悔なし。自信をもって今を過ごし、恐れることなく未来に備えよう。信念をつらぬき、心配するのはやめよう。

偉人は次のように言った。

「人生は、絶え間ない修復と再構築のプロセス、悪い部分を取り除き、良い部分を伸ばしてゆくプロセスでなければならない。一生涯、何も恐れることなく進みたいのなら、良心という切符を手にしなければならない」

人の笑顔を見るのは、最高だ。しかしそれよりももっと凄いのは、その笑顔の理由は自分だと知っていることだ。

 
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2013年10月21日月曜日

楽観主義者と悲観主義者


これは、ある一卵性双生児の物語。
 
一人は希望に満ちた楽観主義者で、「何だってうまくいくさ!」が口グゼ。もう一人は
惨めで絶望的な悲観主義者で、『マーフィーの法則』のマーフィですら楽観主義者だと思っている。
 
息子たちのことが心配な両親は、二人を地元の心理学者の所へ連れて行った。
心理学者は、二人の人格のバランスを整える計画を提案した。
 
「次の誕生日には、二人を別々の部屋に入れてプレゼントを開けさせなさい。
悲観主義の子には、できるだけ最高のおもちゃを与え、楽観主義の子には、箱いっぱいの肥やしを与えなさい。」
 
両親はこの指示に従い、結果を注意深く観察した。
 
悲観主義の息子の部屋を覗くと、ブツブツと文句を言っているのが聞こえた。
「このパソコンの色が気に入らないな…この計算機は絶対壊れるよ…ゲームは好きじゃないし…これより大きなおもちゃの車をもらった子、知ってる…」
 
忍び足で廊下を渡り、楽観主義の息子の部屋を覗くと、幼い息子は楽しそうに
肥やしを宙に放り投げながら、クスクス笑っていた。
「だまされないよ。こんなに肥やしがあるんだから、仔馬がいるに違いない!」
 
 
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2013年10月13日日曜日

失敗にどう反応するか?


ここに、とても重要な医学的解明を成し遂げた、著名な科学研究員にまつわる話がある。彼は新聞記者のインタビューを受け、「あなたはなぜ平均的な人間よりもずっと創造的でいられるのだと思いますか?何が他の人との大きな差を生み出したのですか?」と尋ねられた。

この質問に対し科学研究員は、「すべては2歳頃の母親とのある経験から始まったと思います」と答えた。

2歳の彼は、冷蔵庫から牛乳ビンを取り出そうとしていたが、つるりと手から滑り落ちてしまった。台所の床一面に牛乳をこぼし、まさに辺りは牛乳の海と化してしまった。

台所に入ってきた母親は、叱ったり、お説教をしたり、おしおきをしたりする代わりに、次のように言った。

「ロバート、全く見事な散らかしようね!こんなに大きな牛乳の水たまりなんて、滅多に見られるものじゃないわ。まあ、もうこぼしてしまったのだから、片付ける前に少しこの水たまりで遊ぶ?」

彼は、実際にそうした。しばらくしてから、母親は言った。

「ねえロバート、こんな風に散らかしてしまったら、そのうちきちんと片づけて、元の状態に戻さなければならないのよ。あなたはどうやって片づけたい?スポンジを使ってもいいし、タオルでもモップでもいいわよ。どれがいいかしら?」

彼はスポンジを選び、母親と二人でこぼした牛乳をきれいにした。

それから母親は言った。
「ねえ、今回は、大きな牛乳ビンを小さな手で上手に運ぶという実験には失敗したわね。あなたが、こぼさないで運ぶ方法を見つけられるか、一緒にお庭に出て、瓶に水を入れて試してみましょう」

小さな男の子は、ビンの上の注ぎ口付近を両手で持てば、落とさずに運べることを学んだ。

この高名な科学者はさらに感想を述べた。
「この瞬間、間違いを恐れる必要はないと気付いたのです。間違いは何か新しいことを学ぶ機会でしかなく、科学的な実験とはつまりはそういうものです。たとえ実験が『うまくいかない』場合でも、大抵はそこから何か貴重なことが学べるのです」

もしすべての両親が、ロバートの母親のように反応したら、素晴らしくはないだろうか。

もし私たちみんなが、部下や後輩にこんな風に反応出来たら素晴らしくはないだろうか。誰かが、自分の失敗から学べるように手助けできるとすれば。
 

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2013年10月6日日曜日

友達だよね?


「だって私たち、友達でしょう?」

よく一方が、もう一方から信頼や利益を得たい時に、友情や関係を繰り返し主張するために使われる言葉。

実際の意味は、「本当はあなたの友達でもなんでもないから、いちいち言わなきゃならないの。必要とあらば、事あるごとにあなたに近づいて裏切るしね」

それ故、私たちがいつも聞くのは、「(その女優の)親しい友人によれば…」

正直なところ、本当の友達なら友情を繰り返し確認する必要はないし、なにか聞かれても「知りません」と答えてくれるだろう。


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2013年9月29日日曜日

天まで届け!~交通事故をなくそう~


私は買い物をしながら、ビッグ・バザールの中を歩き回っていた。
そして、レジ係が、せいぜい5,6歳の小さな男の子と話しているのに気づいた。

「悪いね、坊や。でもこのお人形を買うにはお金が足りないんだよ」レジ係が言った。
「本当にお金が足りないの?」小さな男の子は私に向かってたずねた。

私は男の子の持っているお金を数えて言った。
「ほら、お人形を買うにはお金が足りないだろう、坊や」

男の子はまだ人形を手に抱えていた。
「そのお人形、誰にあげるんだい?」私は男の子に近づき、とうとうたずねた。

「このお人形はね、ボクの妹が大好きですごく欲しがってたんだ。妹の誕生日にあげたかったんだ。だからママに渡して、ママがそこに行くときに、妹に渡してもらわなくちゃならないんだ」
 
そう言った男の子の目はとても悲しげだった。

「妹はね、神様のところに行ったんだ。パパがね、ママも、もうすぐ神様に会いに行くって言ってるんだ。だから、妹に渡してもらえるように、ママにお人形を持って行ってもらおうと思って」

私は心臓が止まりそうになった。

小さな男の子は私を見上げ、「ボクね、パパに『まだ行かないで』ってママに頼んでって言ったんだ。僕がモールから戻ってくるまで待っていてって」

それから、笑っている自分の写真を取り出して、「ママにね、ボクの写真も持っていってもらうんだ、妹がボクのこと忘れないように。ボクはママが大好きだから行って欲しくないけど、ママは小さい妹と一緒にいなくちゃならないって、パパが言うんだ」

そして、だまって悲しそうに人形を見つめた。

私はすばやく財布に手を伸ばして言った。
「もう一回かぞえてみようか、ひょっとして足りるかもしれないよ」
「オーケー。足りるといいけど」

私は男の子に見られないように、こっそり自分のお金を足して一緒にかぞえた。お人形を買ってもおつりがくるくらいのお金があった。

「神様、ボクにお金をくださってどうもありがとう」

それから私を見て、「昨日の夜寝る前に、神様にお祈りしたんだ。ママが妹に渡せるように、お人形を買うのに十分なお金をくださいって。ねぇ、ちゃんと聞いてくれたんだ!」

「本当はママに白いバラを買ってあげるお金も欲しかったんだけど、そこまでお願いできなかったんだ。でもね、神様はお人形と白いバラを買えるお金をくれたんだ。ママはね、白いバラが大好きなんだ」

私はやって来た時とは全く違った気分で買い物を終えた。

この男の子のことが私の頭から離れなかった。そう言えば、2日前に地方紙に、酔ったトラックの運転手が若い母親と小さな女の子の乗っていた車に衝突した、という記事が載っていたのを思い出した。

小さな女の子は即死だった。若い母親は危篤だった。もう、こん睡状態から回復する見込みはないので、家族は、生命維持装置をはずすかどうか決断しなければならないということだった。

それは、この男の子の家族のことだったのだろうか?

その小さな男の子に出会った2日後に、新聞でこの若い母親が亡くなったという記事を読んだ。私は自分を抑えきれずに、白いバラの花束を買い、若い母親の葬式会場へと足を運んだ。埋葬前の最後のお別れをのために、棺が開けられていた。

そこに若い母親が横たわっていた。一輪の白い美しいバラを手に握り、あの小さな男の子の写真と、あの時に買った人形が胸の上に置かれていた。

私は涙を浮かべながら会場を後にした。自分の人生がすっかり変わってしまったような気がした。

あの小さな男の子がどれほど母親と妹を愛していたかは、今でも想像に難くない。でもほんの一瞬のうちに、酔っ払い運転が全てを奪ってしまったのだ!

 
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2013年9月23日月曜日

自分を好きになれるまで


私は絵筆を持って歩きます
どこへ行くにも
自分を隠さなければならない時のために
そして本当の自分が見えないようにするために

あなたに自分を見せるのはとても怖い
あなたの反応が怖いのです。笑われるかもしれないし、
意地悪なことを言われるかもしれません
あなたを失ってしまうかもしれません

ペンキのコーティングを全部はがしてしまいたい
あなたに、本当の、そのままの姿を見せるために
でも理解するよう努めてください
見たままを受け入れてほしいのです

だから、もし気長に、目を閉じていてくれたなら、
すごくゆっくりですが、コーティングをはがします
どうか、どんなに苦しいかわかってください
本当の自分をさらけ出すということが

もはや、私のコーティングはすべて除かれました
裸になった気分で、なにも身に着けておらず、寒いです
もしすべてを見ても、私を好きでいてくれるなら、
あなたは私の友達です、純金のように混り気のない

でも絵筆は取っておかなければなりません
手にもっていなければなりません
いつでも使えるようにしておきたいのです
分かってくれない人がいるときのために

だからどうか私を守ってください、大切なお友達
それから、ありのままの私を好きになってくれてありがとう
でも、どうか絵筆はそのまま持たせてください
私も自分を好きになれるまで


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2013年9月15日日曜日

神父の好奇心


神父が、どうしてもトイレに行きたくなり、地元のバーに足を踏み入れた。そのバーでは音楽がガンガンかかり、陽気な会話が飛び交っていた。しかし、数分ごとにいきなり室内のライトが消えていた。

そしてライトが消えるたびに、バーの人々が大声でわめいて拍手喝采していた。しかし、神父がバーに入ると、その場は静まり返った。

神父はバーテンダーに歩み寄り尋ねた。
「トイレはどこにあるか教えていただけますか?」

「はい、神父様。でもお伝えしなければならないことがあります。そこには裸の女性の像があって、イチジクの葉で下を隠しているだけなのですが…」

「大丈夫です。目をそらしますから」神父は言った。

バーテンダーは、トイレのある、店の反対側に神父を案内した。

しばらくして、神父がトイレから出てくると、バーの人々は一瞬間を置いて、神父に大きな歓声を送った。

神父は当惑し、バーテンダーに尋ねた。

「一体どうしたというのでしょう。何故たった今トイレから出てきたところで、皆さんから歓声を受けたのでしょうか。」

「いやぁ神父様、それはあなたが私たちと同じで、人間らしい好奇心があっていいなと思ったからですよ。ところで、一杯いかがですか?」バーテンダーが答えた。

「いや、結構です。でもまだよく分からないのですが…」

「神父様、よろしいですか。女性の像のイチジクの葉を誰かが動かす度に、バーのライトが消えるんですよ。そんなわけですから、まあ一杯いかがですか?」
 

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2013年9月8日日曜日

素敵な1日を過ごすためのルール


今日一日、反撃しない
もし、失礼な人がいても、イライラしている人がいても、不親切な人がいても、同じ態度で反撃しない。
 
今日一日、「敵」を祝福する
もし、誰かに手厳しく扱われても、不公平に扱われても、静かにその人を祝福する。「敵」というのは、家族かもしれないし、ご近所かもしれないし、同僚かもしれないし、
赤の他人かもしれない。

今日一日、口に出す言葉に気を付ける
注意深く言葉を選び、自分の言っていることを監視し、噂話を広めない。
 
今日一日、もう一頑張りする
他の誰かの苦労を一緒に背負う方法を探す。

今日一日、許す
傷つくことやダメージを受けることがあっても、許す。

今日一日、誰かに良いことをする。ただし気付かれないように
自分とは分からないように手を差し伸べ、他の誰かの人生を祝福する。

今日一日、自分がそうして欲しいように人に接する
黄金律である「自分がそうして欲しいように人に接する」を会う人すべてに実践する。

今日一日、応援していなかった人の応援をする
笑顔、言葉がけ、サポートの意思表示は、人生に奮闘している人に効果がある。

今日一日、自分の体を大切にする
食事は控えめに、健康に良いものだけを食べる。自分の体に感謝する。

今日一日、心豊かに成長する
今日は、少しだけ長くお祈りする。今日から、心が豊かになり、感動させられる文章を
読む。静かな場所を見つけてお告げに耳を傾ける。
 

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2013年8月25日日曜日

電話番号案内

 
僕がまだ小さかった頃、父は近所で一番最初くらいに電話を付けた。
 
壁に備え付けられた、ピカピカの古い電話をよく覚えている。その横には、光沢のある
受話器が掛かっていた。僕はまだ小さくて電話には届かなかったが、母親がそれで話をする時には、いつも興味津々で聞き入っていた。

まもなく僕は、この素晴らしい装置の中にものすごい人が住んでいることを発見した。
彼女の名は「電話番号案内」と言い、知らないことは何一つなかった。
電話番号案内は、誰の電話番号でも知っていて、いつも正しい時刻を教えてくれた。

僕とこのアラジンの魔法のランプのような電話番号案内の、最初の個人的な関わりは、ある日、母親が近所に出かけている時に起こった。
 
地下室の作業台で遊んでいるうちに、過ってハンマーで指を叩いてしまったのだ。痛みがひどかったものの、同情してくれる人もいないので、泣いたところで仕方がなかった。

ズキズキする指をくわえて歩き回り、階段にたどり着いた。電話だ!
 
僕は居間にある足載せ台(座っている時に足を乗せる台)を急いで引っ張ってきて、踏み台にした。そこによじ登り、受話器を外して耳に当て、「電話番号案内お願いします」と頭の上の送話口に向かって言った。

「電話番号案内です」カチッという音がしてから、小さなハッキリした声が耳に届いた。

「指に怪我しちゃった。痛いよぅ」
僕は電話口に泣き声で訴えた。聞いてくれる人がいると思うと、涙がどっと溢れてきた。

「お母さんは家にいないの?」その声が質問した。
「僕しかいない」僕は泣きじゃくりながら答えた。

「血は出てる?」
「出てない。ハンマーで指を叩いちゃったからズキズキする」

「冷凍庫を開けることはできる?」
「うん、できる」
「それなら、小さい氷を、指にあてるといいわ」

それからというもの、僕は電話番号案内に何でも聞くようになった。地理の宿題についても質問し、フィラデルフィアがどこにあるか教えてもらった。算数も教えてもらった。公園で捕まえたシマリスが果物と木の実を食べることも教えてもらった。

また、こんなこともあった。我が家のペット、カナリアのピティが死んでしまった。僕は電話番号案内に電話し、その悲しい知らせを告げた。彼女は耳を傾け、大人が普通に子供を慰めるようなセリフを言った。
 
でも僕は慰められなかった。

「鳥はきれいな声で歌って、みんなを喜ばせるのに、なんで最後は羽のかたまりになって、鳥かごの底でひっくり返って死んじゃうの?」

彼女は僕の深い悲しみを感じたに違いない。
「ポール、きっと別の世界で歌っているのよ」と静かに言った。僕の気分はいくらか落ち着いた。

また別の日に、電話口で「電話番号案内お願いします」と告げた。今ではすっかりお馴染みになった声が「電話番号案内です」と答えたので、僕は「『修理』ってどう書くの?」と聞いた。

これは太平洋側にある、ある小さな北西の町で起こった出来事だ。

でも僕が9歳の時、僕達は遠くボストンまで引っ越してしまった。僕は友達を失ってしまいとても悲しかった。
 
電話番号案内は、昔の家にあったあの古い木製の電話ボックスと一体で、なぜか、新しい家の廊下のテーブルにある、背の高いピカピカの新しい電話を試してみようとは全く思わなかった。

10代になっても、子供のころの、あの会話を忘れてしまうことはなかった。困った時や迷った時には、あの時感じた静かな安心感を思い出した。
 
今では、小さな男の子を相手に、彼女はどんなに辛抱強く、思いやりがあって、親切だったのだろうと感謝している。

数年後、西側の大学に行く途中で、飛行機がシアトルに着陸した。次の乗り換えまで30分ほど時間があり、今ではそこに住んでいる姉と15分ほど電話で話をした。
 
それから何をしているかよく考えもせず、生まれ故郷のオペレータの番号をダイヤルし、「電話番号案内お願いします」と告げた。

「電話番号案内です」
奇跡的に、あのよく知っている、小さなハッキリした声を聞いた。
 
「『修理』ってどう書くの?」
別にそうしようと思っていたわけではなかったが、思わず口走っていた。

しばしの沈黙があった。それからやさしい声が、「あなたの指はもう治ったみたいね」と答えた。

「本当にまだあなたがやっているんですね」僕は笑った。「あの頃、僕にとってあなたがどれ位ありがたかったか、ご想像もつかないでしょう」

「あなたの方こそ、あの電話が私にとってどれ位ありがたかったか想像もつかないでしょう。私は子供に恵まれなかったので、いつも楽しみにしていたのよ」

僕は彼女に、ここ何年も彼女のことをよく思い出していたと告げ、姉を訪ねてくる時には、また電話してよいか尋ねた。

「是非そうしてちょうだい。サリーと言えば分かるわ」

3か月後、僕はシアトルに戻った。電話番号案内には違う声が応えたので、僕はサリーをお願いした。

「あなた、お友達?」
「はい、ずっと昔からの」
「それなら、お教えするわ。サリーはここ数か月パートタイムで働いていたの。彼女病気だったのよ。5週間前に亡くなったわ」
 
僕が電話を切ろうとすると、その声は慌てて言った。

「待って、あなたポールって言ったわよね?」
「はい」

「サリーがあなたにメッセージを残しているわ。ここに書いてあるから、今読むわ。『彼にこう言って。別の世界で歌っているわ。それで分かるから』」

僕は電話口にお礼を言って切った。もちろんサリーの言っている意味が分かった。


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2013年7月15日月曜日

それはあなたです


それほど前ではないある日、ミズーリ州のセントルイスにある大会社の従業員たちが、
昼休みから戻ると、正面ドアに貼紙がしてあった。
 
そこには、「昨日、この会社であなたの成長を妨げていた人が亡くなりました。ジムに
用意された部屋で告別式を行っていますのでご参列ください」と書かれていた。

皆、最初は、同僚の誰かが死んだと聞いて悲しんでいたが、しばらくすると、一体誰なのだろうとそわそわし始めた。
 
最後のお別れのためにジムに近づくにつれ、従業員たちの興奮は高まった。
「成長を妨げていた人物って一体誰なんだろう?少なくとも、もうここにはいなくなった
みたいだけど」

従業員たちは、一人ずつ棺に近づいて中をのぞき込み、それと同時に言葉を失った。
棺のそばに立ちはだかり、魂の最も深い部分に触れられたかのように、ショックを受け黙り込んだ。

棺の中には鏡が置かれていた。
中をのぞき込んだ者は皆、そこに映った自分自身を見た。

鏡の傍にはメッセージがあった。
「あなたの成長に制限を加えられるのは、たった一人。それはあなた(・・・)自身(・・)。」

あなたの人生を大きく変えられるのは、あなただけだ。
あなたの幸せや、物事の実現や、成功に影響を与えられるのは、あなただけだ。
あなた自身の助けとなるのは、あなただけだ。

あなたの人生は、上司が変わっても、友達が変わっても、両親が変わっても、恋人が
変わっても、会社が変わっても、変わらない。

あなたの人生は、あなたが変わった時に変わるのだ。自身に対する思い込みを乗り
越え、あなたの人生に責任があるのはあなただけだと気づいた時に。


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2013年1月21日月曜日

自分の好きなことを見つけなくちゃ!


これは2005612日、アップル・コンピューターおよびピクサー・アニメーションスタジオの
スティーブ・ジョブスが、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチである。
~~
本日は、世界でもトップクラスの大学の卒業式に参列できて光栄です。
僕は大学は卒業しませんでした。だから正直なところ、今日が大学の卒業式に最も近づいた日と言えるでしょう。


今日は、皆さんに僕の経験から、三つの話をしようと思います。それだけです。
大したことはありません。たった三つです。
 

一つ目の話は、点と点が線で結ばれる話です。
 

僕は、最初の半年でリード大学の正規のコースからは脱落しました。でも実際に退学するまでさらに1年半ほど聴講していました。では僕はなぜ辞めたのか?

事の始まりは、僕が生まれる前からです。
それは、僕が生まれる前から始まっていたのです。

僕の生みの母親は、若い未婚の大学院生でした。それで僕を養子に出すことにしたのです。

母は、絶対に大卒の人の所に養子にやるつもりだったので、僕が生まれたら弁護士のところに養子に行くよう全ての手筈が整っていました。

でも、僕が生まれて、最後の最後になって、この夫婦は実は女の子が欲しかったと気づいたのです。
 

それで順番待ちのリストに載っていた僕の両親は、真夜中に「ちょっと予定が狂った男の赤ちゃんがいるんですが、養子に欲しいですか?」という電話を受けたのです。

僕の両親は「もちろんです!」と答えました。


生みの母は、後に、養母が大学を卒業しておらず、養父は高校も卒業していないことを知りました。母は、養子の最終承諾書類にサインすることを拒みました。数ヵ月後、僕の里親が、僕を必ず大学にやると約束してようやく折れたのです。

 そして17年後、僕は確かに大学に進学しました。でも僕は世間知らずで、このスタンフォード大学と同じくらい授業料の高い大学を選んだのです。


賃金労働者だった僕の両親の貯金はすべて大学の授業料につぎ込まれました。

しかし6ヶ月経っても僕は大学の価値が分かりませんでした。自分の人生で何をやりたいのかも分からなかったし、大学がそれをみつけるのに、どう役立つのかも分かりませんでした。それなのに、両親がそれまでに貯めたお金を全部使っていたのです。

だから、大学の正規コースは辞めて、それでも全てはうまく行くと信じることにしました。当時はけっこうヒヤヒヤしましたが、振り返ってみれば、最高の決断の一つでした。すごくいい決断でした。
 

正規コースは辞めると決めたとたん、面白くない必修科目を取る必要がなくなりました。そして、面白そうなクラスを聴講し始めたのです。

でもそんなにすばらしい生活とはいえませんでした。大学の寮に入っていなかったので、友達の部屋の床で寝て、1つ5セントのコカコーラのボトルを集めて食費にあてていました。

そして、日曜の夜には、ハーレ・クリシュナ寺院での週に1度のおいしい食事にありつくために、街の反対側まで7マイル(約11.3キロ)の距離を歩きました。とってもおいしかったですよ。

そしてこの時、好奇心と直感にしたがってばったり出くわしたものが、あとから非常に価値のあるものになりました。

一つ例を挙げましょう。

 当時リード大学は、多分国内でも最もすばらしいカリグラフィー(文字を美しく見せるための手法)の指導を行っていました。
キャンパス内のポスターや引き出しのラベルはどれも美しい手書きのカリグラフィーを用いていました。

正規コースから外れ、普通科目を取らなくても良かったので、僕はカリグラフィーのクラスを取って、どのようにするのか学ぶことにしました。

僕はセリフ書体やサンセリフ書体について学びました。また、文字の組み合わせによってスペースを変えることも学びました。また何がタイポグラフィー(印刷術における文字の体裁を整える技芸)を素晴らしくするのかも学びました。

カリグラフィーは美しく、歴史があり、化学では捉えられないような、微妙な芸術的なニュアンスがあり、僕はとてもすばらしいと感じたのです。

 しかしこういったことが、僕の人生で実際に役に立つとは、ほんのかけらほども思っていませんでした。


ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計している時、こういったことが全て甦ってきたのです。そしてすべてをマックの設計に含めたのです。

マックは文字が美しく印刷される最初のコンピュータでした。

もし私が大学で、あのたった一つのコースを聴講しなければ、マックはいくつもの書体やスペースが計算されたフォントを持つことはなかったでしょう。

そして、ウィンドウズはただマックの真似をしただけですから、そういった機能を持つパソコンはこの世に生まれなかったでしょう。

もし私が正規コースを脱落しなければ、カリグラフィーのクラスの聴講はしなかったでしょうし、パソコンは今のように美しく文字を印刷しなかったかもしれない、ということです。

もちろん、大学にいた頃は、先を見越して点と点を結ぶなどということは不可能でした。ですが、10年後に振り返ってみると、その点と点のつながりがはっきりと見えたのです。

繰り返しになりますが、先を見越して点と点を結ぶことは出来ません。あとから振り返ってみてようやくつなぐことが出来るのです。

ですから、点と点というのは、将来何らかの形でつながるのだと信じてください。

皆さんは、何かを信じなければなりません。直感、運命、生き方、カルマ、など何でもいいのです。

私は、今まで信じて、期待はずれの結果に終わったことはありませんよ。信じることは、私の人生に大きな違いをもたらしてくれました。
 

二つ目の話は、愛と損失についてです。
 

私はラッキーでした。人生の早い時期に好きなことを見つけました。Wozと私は、私が20歳のときに、両親のガレージでアップルを始めました。

懸命に働いて、10年後にはガレージに私たちたった二人だったのが、4,000人の従業員を持つ20億ドルの会社に成長したのです。

その1年前に、最高の作品であるマッキントッシュを発表していて、私は30歳になったばかりでした。そうしたら解雇されました。

自分が始めた会社からどうやって解雇されるかって?

それはですね、アップルが成長してきた際、一緒に会社を経営するにふさわしいと思えた人を雇ったわけです。

最初の1年くらいはうまくいきました。でも私たちの将来像が分かれてきて、結局仲たがいをしました。

そうなった時、会社の取締役会は彼の側に付いたのです。それで30歳にして職を失いました。それもとても公然と失いました。自分が大人になってからの人生の焦点だったものを失い、打ちのめされました。

数ヶ月間は、どうしたらよいのか本当に分かりませんでした。

前の世代の企業家を失望させた、バトンを渡された際に落としてしまったと思いました。デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、ひどくめちゃくちゃにしたことを謝ろうとしました。

私は世間に知れた敗北者で、シリコンバレーから逃げだそうかとさえ思いました。

でもゆっくりと分かり始めました。私はそれでも自分のしていたことが大好きだったんです。

アップルでの情勢の変化もそれを少しも変えはしませんでした。だから、もう一度やり直すことにしたんです。
 

その時は分かりませんでしたが、アップルから解雇されたのは、私にとって最高の出来事だったと分かりました。

成功していなければならないという重荷は、初心者に戻った気軽さに変わり、すべてはあまり確かでなくなりました。

そんな状況は、私の人生で最もクリエイティブな時期へと自分を解放させました。
 その後の5年間、私はNeXTPixarという二つの会社を設立し、後に私の妻となる素晴らしい女性に恋をしました。


ピクサーはトイストーリーという世界初のCGアニメーション映画を手がけることになり、今や世界でも最も成功しているアニメスタジオになっています。

そして、驚くべき情勢の変化で、アップルはNeXTを買収し、私はアップルに返り咲きました。NeXTで開発した技術は、アップルでの現在のルネッサンスの核心となっています。

そして、ローリーンと私はすばらしい家族を作りました。
 

もしアップルから解雇されなければ、こんなことは何一つ起こらなかったでしょう。

ひどく苦い薬でしたが、患者にはそれが必要だったのだと思います。時に人生は、頭をレンガで直撃してきます。

でも信念を失わないでください。私がやってこられたのは、自分がやっていることが本当に好きだったというただそれだけのことだと確信しています。

だから、あなたたちも自分が本当に好きなことを探すべきです。これは、仕事に関しても恋愛に関しても同じです。

仕事は人生の大きな部分を占めることになるので、心底満足したければ、すばらしいと思う仕事をすることです。

もしまだ見つかっていなければ、探し続けてください。止めてはいけません。すべての物事がそうであるように、見つけた時にそれだと分かります。

そして、すばらしいお付き合いというのはみなそうですが、年月が経つに連れてどんどん良くなっていきます。

ですから、見つかるまで探し続けてください。探すのを止めてはいけません。

 三つ目の話は、死についてです。
 

私は17歳のときに、「もし毎日をこれは人生で最後の日だと思って暮らせば、
いつか必ずそれが正しくなる」というような引用文を読みました。

その言葉は心に焼き付いて、それ以来33年間、毎朝鏡を見て、自分に問いかけてきました。「もし今日が人生で最後の日なら、今日これからしようとすることがしたいだろうか?」

そしてもしその答えが「ノー」である日が続けば、何かを変えなければならないと自覚しました。
 

自分はまもなく死ぬんだと意識することが、人生で大きな選択をする際に、これまでで一番役に立ちました。

なぜなら、ほとんどすべて、外部からの期待だとか、プライドだとか、失敗や恥をかくことへの恐怖だとか、そういったものは死を目の当たりにすると剥がれ落ち、本当に大切なものだけが残るからです。

私にとって、自分はまもなく死ぬんだと意識することは、自分は失うものがあると思ってしまう罠に引っかからないための最善の方法です。あなたはもう裸なのです。ですから、自分の心に従わない理由はありません。

1年前、私はガンだと診断されました。

朝の7時半にスキャンをとったのですが、そこにはすい臓の腫瘍がはっきりと写っていました。

実は私はすい臓というのが何なのかも知りませんでした。

医者は、これはほぼ間違いなく治療不可能な種類のガンで、余命は3~6ヶ月だと言いました。医者は私に、家に帰って身の回りの整理をするよう言いました。医者がこう言うのは、死を迎える準備をしろということです。

それは、子どもたちに教えるのにあと10年あると思っていたことを全て、わずか数ヶ月で教えようとすることを意味します。また
、家族ができるだけ大変な思いをしないように、すべてをきちんと整えるということです。

それは、さようならを告げることです。
 

私はこの診断と1日付き合いました。その日の夕方おそく、私は生体検査を受けました。私の喉から内視鏡を入れ、胃と腸を通ってすい臓に針を刺し、腫瘍のサンプルを取りました。

私は落ち着いていましたが、その場にいた妻が言うには、顕微鏡でサンプルを観察した医者たちは、手術で治療が可能な珍しい種類のすい臓がんであると分かって、ホッとして泣きだしたそうです。

これが私が今までで最も死に近づいた経験です。できればあと数十年は、これが最も近い経験であることを祈っています。

この経験を通して、死というものが、有益な単なる知的概念だった時より、今はもう少し確信を持って次のことが言えます。

誰も死にたくない。天国に行きたい人でもそのために死ぬのはイヤです。それでも死というのは我々みなが共有する到達点です。逃れられた人は1人もいません。

そしてそれがあるべき姿です。なぜなら死というのは、たぶん生の唯一の、そして最も素晴らしい発明品だからです。

死は生の変化をもたらします。新しいものに道を譲るため古いものを一掃します。

今新しいのはあなたたちです。しかし、今からそう遠くないいつの日か、あなたがたはだんだん古くなり一掃されるのです。大げさかもしれませんが、かなり当たっています。

あなた方の時間は限られています。だから他人の人生を生きて無駄にしないでください。他人の思考の結果に基づく定説に捕われないでください。他人の意見という騒音に、あなたの心の叫びが飲み込まれないようにしてください。

そして最も大切なことは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。心と直感はなぜだか、あなたがどうしたいのかすでに知っています。他の事はすべてあまり重要ではありません。
 

私が若いとき、「全地球カタログ」というすばらしい出版物がありました。これは、私の世代のバイブルの一つでした。

スチュワート・ブランドという人物によって、このメンロ・パークからそんなに遠くない場所で、彼の詩的なニュアンスが加わって息を吹いたのです。 

1960年代の終わりでしたから、パソコンやデスクトップ出版が出まわる前で、全てがタイプライターやハサミやポラロイドカメラで出来上がっていました。

それは例えればグーグルの書籍版のような感じでした。グーグルが現れる35年前のね。理想主義的で、かっこいいツールやすごいコンセプトに溢れていました。
 

スチュワートと彼のチームは「全地球カタログ」を数冊出し、一通りのことをやって、最終号を出版しました。1970年代の中ごろで、わたしはあなたたちの年頃でした。

最終号の裏表紙は、早朝の田舎道の写真で、冒険心が強い人ならそこでヒッチハイクしているような道でした。

その下には次の言葉がありました。「貪欲であれ。愚かであれ。」これが彼らの最後のメッセージでした。貪欲であれ。愚かであれ。

私はいつも自分がそうであるように祈っていました。そして今、卒業し新たな道を歩み出すあなたたちにもそれを祈っています。
 

貪欲であれ。愚かであれ。


オリジナルへのリンク↓
http://peacefrompieces.blogspot.com/2006/07/youve-got-to-find-what-you-love.html