2011年8月15日月曜日

泣き言をお許しください

今日バスで金髪の少女を見かけた。
とても明るい感じの少女が羨ましかった。
あれくらい色が白ければいいのに、と思った。
その時突然少女はバスを降りようと立ち上がった。
少女が足を引きずりながら通路を歩くのが見えた。
片足しかなく、杖をついていた。
それでも横を通り過ぎるときに、ニッコリと微笑んだ。

神様、どうか私の泣き言をお許しください。
私には両足があります。私はとても恵まれています。

飴を買おうと売店に立ち寄った。
売り場の青年はとても魅力的だった。
青年と立ち話をしたが、とても嬉しそうだった。
少しくらい遅れてもどうって事はないだろうと思えた。
立ち去る際に、青年は、
「ご親切にしていただき、どうもありがとうございます。
あなたのような方と話をするのは楽しいです。
私はこの通り目が見えないもので」と言った。

神様、どうか私の泣き言をお許しください。
私は両目が見えます。私はとても恵まれています。

その後、通りを歩いていると青い目の子どもが目に入った。
その子は他の子が遊んでいるのを眺めていた。
一緒に遊びたいのにどうしたら良いか分からない、という感じだった。
私は一瞬立ち止まって、それから言った。
「ほら、仲間に入れてもらえばいいのに。」
その子はじっと前を見つめたままだった。
ようやく、この子は耳が聞こえないんだと気がついた。

神様、どうか私の泣き言をお許しください。
私は両耳が聞こえます。私はとても恵まれています。
私には、行きたい所に運んでくれる足があり
輝く夕日を見つめる目があり
知りたいことが聞こえる耳を持っています。

神様、どうか私の泣き言をお許しください。
私は本当に恵まれています。世の中はすべて私次第です。

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女性の美徳

女性を創造したとき、神様は第6日目の夜おそくに作業を行っていた。
天使が立ちよって、「なんで、そんなに時間をかけるのですか?」とたずねた。

神様は次のようにこたえた。
「女性を創るのに必要なスペックを全部見たかね?
洗えるがプラスチック製ではなくて、200以上の動くパーツがすべて交換可能で、
どんな食事でも機能できて、こどもを一度に数人かかえられて、
ひざ小僧のケガから傷ついた心までなんでも癒してしまうハグ(抱擁)ができる、
しかもこういったことすべてを2本の手だけで行わなければならないのだよ!」

天使は感心した。
「たった2本の手で?それはムリでしょう!
これが標準的なデザインですか?
1日の作業にしては多すぎますよ。
あした完成させればいいじゃないですか。」

「いいや、そうはいかない。」神様はいった。
「もうほぼ完成しそうなんだよ。きっと私の大のお気に入りになるだろう。
具合が悪ければ、自分で治せるし、118時間うごけるんだ。」

天使は近づいて女性にさわってみた。
「えっ、でも神様、ずいぶん柔らかいじゃないですか!」

「そう、柔らかいんだ。」神様はいった。
「でも強くもある。君にはきっと、女性がどれだけ多くのことに耐えて克服できるか、想像もつかないだろう。」

「考えることはできるのですか?」天使はたずねた。

「自分で考えられるだけでなく、物事を判断したり、交渉したりもできるよ。」
神様はこたえた。

天使は女性のほおに触れてみた。
「神様!なにか漏れているみたいですよ!負担のかけすぎじゃないですか?」

「漏れているんじゃないよ、それは涙というんだ。」神様は天使の言葉を訂正した。

「何のためにあるのですか?」天使がたずねた。

「涙は、彼女の悲しみや疑い、愛や孤独、苦悩や誇りなど、すべてを表現する手段なんだよ。」神様はいった。

これに天使はたいへん感激した。
「神様!あなたは天才ですね。何もかも考えられたのですね。
女性はほんとうにすばらしいです!」

「本当にそのとおり。女性は男性を驚かせる強さをもっている。
彼女はトラブルを処理し、重い負担にも耐えられる。
女性は幸福、愛、信念をもちあわせている。
女性は叫びだしたいときにほほえみ、泣きたいときに歌い、幸せなときに泣き、
怖がっているときに笑うんだ。
彼女は信じるもののために戦い、不正に立ちむかう。
よい解決策があると思えば、「できない」という返事は受けつけない。
家族の成功のためにがんばる。
心配なら友人を医者につれていく。
女性の愛は無条件なんだ。
そして、わが子の勝利に泣き、友人の成功に幸せを感じ、出産や結婚の話によろこぶ。
家族や友人が死ぬと心をいためるが、それでもくじけずに人生を生きていく強さをもっている。彼女はキスとハグ(抱擁)で傷ついた心を癒せると知っている。」

だが、神様は最後にこう付け加えた。
「でもたったひとつ悪いところがある。女性はそういった自分の価値を忘れてしまうんだよ!」

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天秤を傾ける


91歳の女性が長く凛とした人生を送って亡くなった。神様と出会うと、女性は長い間気になっていたことを尋ねた。「もし人間が神の形になぞらえて創造され、みな平等に創られたなら、どうしてお互いをあんなに粗末にあつかうのでしょう?」

神様は、「人生に登場する人々というのはそれぞれ、おもしろいことを教えてくれるのだよ。そして、こうした教えによってのみ、私たちは人生や人間、神との関係について学ぶのだよ。」と答えた。神様の答えに女性は混乱した。そこで神様は次のように説明した。

「誰かがウソをついたときは、物事はいつも見かけ通りとは限らないということを教えられる、真実というのはたいてい表面よりもずっと奥深いところにある。もし人々の心の中を知りたければ、彼らが付けているマスクの奥を見ることだ。そして本当の自分を知ってもらうためには、自らのマスクをはずすことだ。」

「誰かに物を盗まれたときは、永久に存在する物はないということを教えられる。常に今ある物に感謝しなさい。いつ失うか分からないのだから。友達や家族がいるのは決して当然だと思わないように。今日、いや、たった今この瞬間しか、いるという保障はないのかもしれないのだよ。」

「誰かにケガをさせられたときは、人間というのはとてももろい存在だと教えられる。できるだけ自分の体を守り大切にしなさい。自分の体だけが、唯一いつまでも自分が持ち続けられるものなのだから。」

「誰かにあざけられたときは、同じ人間は二人といないということを教えられる。自分と違う人々に出会ったときは、外見や行動で判断してはいけない。そうではなく、心の中身で判断しなさい。」

「誰かにハートを傷つけられたときは、誰かを愛しても、相手も同じように自分を愛してくれるわけではないということを教えられる。だからといって愛に背を向けてはならない。なぜならピッタリの相手を見つけたときには、その喜びは過去の傷を全て癒し、さらにその1,000倍くらいの喜びとなるからだ。」

「誰かに恨まれたときは、誰もみな間違いを犯すということを教えられる。不当な扱いを受けたときにできる最も立派な行いは、不当な扱いを行った者を心から許すことだ。自分を傷つけた人を許すというのは、人生の経験で、最も難しく痛みを伴うものだ。だが、人として最も勇気のある行いでもある。」

「愛する人が不誠実をはたらいたとき、誘惑に打ち勝つということは人間の最大のチャレンジだと教えられる。あらゆる誘惑に負けないよう用心なさい。そうすることで、誘惑に負けて得られる一時的な喜びよりもずっと大きな満足感が永続的に得られるだろう。」

「誰かにだまされた時は、貪欲さが全ての悪の根源だと教えられる。どんなに大きな夢であっても、その実現を目指しなさい。成功に罪悪感を持つことはない。ただ、目標達成に執着するあまり、よこしまな事に関わってはならない。」

「誰かにバカにされた時は、完璧な人間などいないということを教えられる。人の良いところを認め、欠点には寛容でありなさい。本人すらどうすることもできない欠点のせいで人を拒絶するようなことがあってはならない。」

神様の英知を伺った女性は、人の良い行いから学ぶことは何もないのだろうかと気になり、尋ねた。神様は、「愛する力というのは人間が持つ最も偉大な才能なのだ。思いやりと愛の根底にあるものや、ひとつひとつの愛に基づいた行いも教訓となる。」と答えた。
女性の好奇心が膨らんだ。神様は再び説明し始めた。

「人が誰かを愛するとき、愛、思いやり、慈善、誠実、謙遜、許し、承認といった類の事が、この世のすべての悪に対抗できるということを教えられる。ひとつの善行に対し、ひとつの悪行がある。人間だけが善悪のバランスをコントロールする力を持つ。でも愛について学ぶ機会があまり無いので、この力は悪用されがちだ。」

「誰かの人生に関わったら、それが計画的であれ、偶然であれ、何を教えることができるか考えなさい。愛について教えるか、それとも現実の辛さについて教えるか。死ぬときになって、あなたの人生は愛と痛みのどちらが多い結果となるだろう?快楽と苦痛のどちらが多いだろう?喜びと悲しみのどちらが多いだろうか?一人ひとりが愛の方向にこの世のバランスを傾ける力を持っている。だからその力を賢く使いなさい。」

私たちは、この世のバランスを、正しい方向へ傾ける機会を逃してはならない!

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2011年8月14日日曜日

人生はコーヒー


卒業生たちが昔の大学の教授を訪問するために集まった。彼らはみな仕事でかなりの地位を築いていたが、話はすぐに仕事や生活のストレスへの愚痴になった。

教授は、卒業生にコーヒーを出すため、キッチンに行ってコーヒーの入った大きなポットとカップを持ってきた。コーヒーカップは、陶器、プラスチック、ガラス、クリスタル、シンプルなもの、高価なもの、上品なものなどいろいろあった。教授は卒業生に自由にコーヒーを飲むようすすめた。

全員がコーヒーカップを手にしたとき、教授は次のように言った。

「皆さんお気づきでしょうか。見栄えのする高価なカップはすべて無くなっていて、何の変哲もない安いカップだけが残っています。もちろん、最高のものを望むのはごく自然なことですが、それがいろいろな問題やストレスの原因にもなっています。

どうか、カップそのものはコーヒーの質に何の影響も与えないということを思い出してください。大抵の場合、ただ値段が高いというだけですし、時には何を飲んでいるのか分からなくしてしまいます。
飲み物がすっかりそっちのけになってしまいます。

皆さんが本当に欲しかったのは、カップではなくコーヒーだったはずなのに、良いカップに飛びついて、他の人のカップと比べたりしていました。

ですから、次のように考えてみてください。人生はコーヒーです。仕事やお金、社会的地位はコーヒーカップです。つまり、そういったものはただの受け皿で、持っているカップが、コーヒーの質を決めたり変えたりするわけではありません。

時々私たちは、コーヒーカップにばかり気を取られて、神様がせっかく与えてくださったコーヒー、つまり人生を楽しめないでいるのですよ。」

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